●債権者の交渉
私がこの仕事をすることになるきっかけになったのは、
9年間勤めていた電子機器の開発会社が民事再生になり退社することになったことからでした。
その会社は、50人程度の少数精鋭の技術集団でした。私はその中で、商品企画部門、財務部門、人事部門、品質保証部門、生産管理部門、と広い範囲の部署の総合責任者をしていました。
創業以来14年間業績を順調に伸ばしてきたことから株式公開をしようとする準備も始め、その責任者もしていました。
しかし、その矢先、大きなプロジェクトの売上回収が2件も同時にできなくなり状況は一変してしまいました。
それからは、財務部門責任者であった私は、資金繰りに追われて銀行には、リ・スケジュールの依頼をするためにこれからの返済計画書を作成して、交渉にあたりました。
同じように仕入れ先の業者にも支払いの猶予をいただくように交渉する毎日です。
しかし、あまりにも大きな穴埋めをすることは容易ではなく、処分できる物資は売却をしましたが、それぐらいではぜんぜん追いつかずにとうとう人員整理を行うことを決断しました。
これは、人が財産である開発会社にとって最後の苦渋の選択でした。
その役目は、当然人事部門の責任者でもある私の仕事です。
そんな会社の事情を知らないために、どうして私が解雇されなければならないのかと責められたのは当然のことです。
いつも飲みに連れて行った若い連中とも険悪なムードになり、会社の中にもその雰囲気はすぐに広まってしまいました。
そうなると滑り落ちるのは早いもので、会社のみんながそわそわして浮き足立ち、仕事どころではないという雰囲気になり早々に退社する人も出てきました。
一人一人面接をしていく中、社員全員が会社の状況を認識するようになりました。
話をして理解を示してくれた人が殆どでしたが、当然納得がいかないまま辞めてもらうことになった人もいます。
最小限に人員整理した中でなんとか立て直しをはかり、残った社員一丸になって取り組みましたが、一度くずれた歯車をもとに戻すことは容易ではありません。
どうしたら良いか、まったく策がない状態になってしまいました。
何か良い方法がないかと本屋によって立ち読みをしていた時、ふと民事再生という本が目につきました。
そういう言葉があることは知っていましたが、具体的な内容は全然知りませんでした。
パラパラと本をめくり、何か役に立つかもしれないと思いその本を買って帰り、家に帰ってその本を読み、これしかないと直感しました。
これしかないということを社長に相談して、まずは会社を引き取ってもらうところがあるかを内密に探すことにしました。
社長と訪問する中には、社長を犯罪者のように言う会社の社長さんもあり、2人で意気消沈して会社に戻ってくることもありました。
そんな中、会社の技術力を認めて頂く会社があり、民事再生をするようになった時には相談してくださいという社長さんの言葉を信じて民事再生に踏み出す決意をしました。
それから、社長に弁護士を探してもらい弁護士の指示のもと色々と資料を作成することになりました。
準備が整ったところで、債権者の皆様に民事再生をしなければ立ちいかなくなった旨の通知をしました。
それから、私の最後のお役目の開始です。
毎日、債権者の方に呼び出されて事情説明をする毎日が続きました。
ある銀行さんには、あなたはあの時、返せますと言いましたよね。
嘘をついたのですか。
ここで、詫びてくださいと言われ、
土下座をして頭を地面につけて「愚か者でした」と謝罪をしました。
悔しいやら、申し訳ないやら、言葉ではあらわせない感情です。
その時には、私の精神力も限界に近づいてきていました。
「残った仲間を受け入れてくれる会社に送り出すまでは絶対につぶれない」
何のために仲間の首を切ってきたのか、まだ、もう少し苦しめる。
しかし、手を合わせて祈ることぐらいしか残された力はありませんでした。
その祈りも通じて、債権者の方の同意のもと民事再生を開始することができるようになり、民事再生の話をした社長さんも、約束通り会社を引き受けることを承諾して頂きました。
やっと、終わったと思い全身の力が抜けていくのを感じました。
その引き受けていただく会社の社長さんからは、私の働きを認めて頂き、うちで働きなさいと言って頂きました。一部上場の会社ですし十分に魅力的な誘いでしたが、
私の心は既に灰になって燃え尽きてしまっていました。
なので、ありがたいお誘いでしたが丁重にご辞退いたしました。
私が勤めていた会社の社長は、中学生時代からの親友で、阿吽の呼吸で私の気持ちを察してくれて円満に退社することができました。
「首を切った仲間よ許してくれ」
●就職活動
それからの私は、うつ状態になり家に引きこもりがちになりました。
勤めていた会社は、家の近くだったので債権者と会ったらどうしようと外に出ることも怖くなってしまったのです。
それでも、生活をするためには収入がないと暮らしていけないので、ハローワークに通うようになりました。
色々な会社に履歴書を送ってみても書類選考で落とされることがほとんどです。
40半ばも過ぎた私を今までの条件で雇ってもらえるところはありません。
また悪いことは重なるもので、時はあのリーマンショックと時を重ねる時期でもあり余計に厳しい状況でした。そうでなくても考えてみれば、わたしには特別な技能も資格もなかったのです。
今までは、優秀な社員に上手く動いてもらうことが得意だった私は、新しく入った会社で何ができるかということを訴えるものが弱かったのです。
どうすれば生活をしていくだけの収入を稼げるかを色々と模索していきました。
安易な考えでしたが、自分で何かできる仕事はないかとぼんやりと考えるようになりました。
今までの経験からマーケティングをして自分が勝てる強みは何かを模索しました。
量産ができないこと、価格競争がないこと、資本の大きな大企業が参入してこないこと、今ある財力で投資できること、母の介護をするために自宅で出来ることなど色々な条件と自分が好きなことを条件にオーダーメイドの靴を作る仕事をしようと考えました。
就職活動をしながら、靴を作る学校とホームページを作る学校に通うようになりました。
しかし、いつまでも仕事をしないで生活する蓄えがあるわけでもなく、また、すぐにできる仕事ではないのでまずは、希望する条件ではなくても構わないので雇ってもらえるところを探して、並行して靴の勉強をしようと考えました。
●再就職
希望の条件ではありませんでしたが、運良く正社員として再就職をすることができました。
それからは、新しい会社で覚えること、靴の勉強で覚えることと文字通り寝る暇もない状態の毎日がつづきました。
靴の修行は、仕事と並行していたので大変でしたが、他の生徒が出来ないで困っていることもあまり迷わないでスラスラとできて、上達するのが早くて先生を驚かせるほどでした。
自分の中でもこれは自分に合っているなと思い、こんな面白ことが仕事にできたらいいなという気持ちでやっていたので大変でも続けることができました。
仕事の方はといえば、こちらは辛い気持ちでいっぱいでした。
軍隊のような会社で営業をしていたので、営業部は毎朝、社長に呼ばれて叱咤されて、毎日がノルマとの戦いでした。
新しい会社で、覚えることがたくさんあり、営業のことは二の次でそんな状態で成績が上がるわけがありません。
周りは、社長が選び抜いた一流の営業マンばかりです。
営業部の中では歳の差は関係なく、先に入った人が偉いという風習でした。
当然、社長から見れば成績の優秀な人が偉いのですが、仲間内での上下関係は違います。
一番新しく入ってきた私には、雑用がどんどん回ってきます。
今まではNo.2で働いていた私が、一番下の小僧です。
先ほども言ったように時はリーマンショックの時代、営業マンはどんな小さな仕事も見逃さないようにと血眼になって探している時に、何もわからない私におこぼれが回ってくるはずがありません。
しかし、そんな中でどうすればこの1流の営業マンの中でトップになれるかを真剣に考えていました。
毎日帰りは1時過ぎ、朝は5時起きで7時には会社について軍隊のような1日が始まります。
そんな中、休みの日には靴の修行を休みたくなる気持ちもありましたが、それだけが希望の光だったので辛くても靴の修行を欠かすことはありませんでした。
仕事の方も3ヶ月間1件も取れなかった受注がようやく1件、数十万円という小さな仕事でしたが頂くことができました。それが呼び水になり、同じお客様から今度は数百万円の仕事を取ることができました。
当時の状況で新人が取ってこれる仕事としては褒められた受注でした。
私はここだと感じました。それからはなんと言われようとそのお客様を毎日訪問することにしました。
その時も、いかに最短でトップになるためにはどうしたらいいかを真剣に考えて、そうなれると信じていました。
しかし、世の中そう上手くはいきません。それから何ヶ月も受注がない月が続き営業会議で叱咤される毎日が続きました。
営業から帰る足も重くなり、周りの目も冷ややかな空気が漂っています。
前職で潰れたあの悪夢がまたよみがえってきそうにないました。
もう少し耐えられると自分に言い聞かせて、
今を乗り越えることだけを考えて過ごす毎日でした。
そんな時、とうとう待ちに待った案件が舞い込んできました。
それは、2億円という超大型商材です。
時は、リーマンショックの時代に日本でそんな大型案件は皆無と言っていい時代でした。
日本の大型案件は、せいぜい1億円ぐらいのものです、その商材を大手が何社も取り合う状態で、実際に受注できるのはその何分の1の金額です。
そんな時代での2億円です。
私に話があった商材は、中国の商材で他の会社に邪魔をされないで1社で独占して受注できるというありえない話でした。
その商材の受注のお陰で私は、営業成績トップの座に躍り出ることができました。
1件の受注金額としては、創設40年になるその会社での最高受注金額です。
それからは、私は社長から特別待遇です。
「定時で帰れるのは川島1人だけだ」
「お前はもう帰っていいぞ」という感じです。
営業部の仲間からの風当たりは強くなりましたが、そんなことはぜんぜん気になりません。
「たまたまですよ」と余裕の対応です。
それからは精神的にも安定して仕事もできるようになりました。
しかし、靴の修行も進んできて独立しようという時が来て、社長にそのことを打ち明ける時がやってきました。
社長は、白血病で何ヶ月も入院して治療を受けていて、復帰した日が私の面接日でした。
面接は社長宅で行われ、即採用していただくことになりました。
それからも悪い状態は続いていたのですが、「この景気の時に俺がいなければこの会社は倒れる」と言って、見つかったドナーも断り入院することなく仕事を続けられていたリーダーシップのある経営者です。
「お前、今そんなオーダーメイド靴をつくる仕事など続けられると本当に思っているのか」
「今、高級ブランドが日本から撤退している中で、商売になるわけないじゃないか」
「悪いこと言わないから、俺と一緒にやって行った方がいい」
「社長になりたいんだったら、関連会社の社長にしてあげる」とまで言って頂きました。
「いいか俺は今まで一回もやめると言った社員を止めたことはないんだ」
「その俺がやめるなと言っているんだ」と引き留めて頂きました。
しかし、私の意思が硬いとわかり、止められないと分かると、社長の態度が一変しました。
今までの怖い社長が嘘のように優しくなり、社長が40年来通っている新宿のしょんべん横丁やら銀座、赤坂のバーなど私などは一生かけても行けないようなところへ連れてっていただきました。
社長は怖い人という思いもありましたが、とても魅力的な人でもありました。
人脈も広く、「俺の人脈を使えば今の日本で会えない人はいないと思うよ」
そんな社長の言葉も本当のように思える人でした。
●出発
そして私が退社してから間も無く、会社の運営も落ち着き再び白血病の治療で入院することになり、病院先から、「仕事はうまく行っているか」という社長からの電話が入りました。
いえ、まだ仕事はありません。と言うと
「そんなことではダメじゃないか、すぐ俺の足を測りに来い」と言われて、杏林大学病院のVIPルームに足を測りに行きました。
「俺が一番最初のお客さんだな」
ハイ!
「それなら作ってみろ」とその場で即金で注文して頂きました。
代金は出来上がってからで結構ですと言っても聞いてくれません。
今、領収書を持ち合わせていないのでと言っても「そんなものどうでもいい」と言って聞きません。
会社にいた頃、「営業会議をするから缶ジュースを買って来い」と言われて、
お釣りを渡して そのままにしていたら、「ところでさっきの缶ジュースの伝票どうした」とこっぴどく叱られた事がありました、なんだ社長のポケットマネーじゃないのかとブツクサ言って伝票を書いたことがありました。
それほどお金の面ではきちんとされた方なので、少し戸惑いを感じたのを憶えています。
それから、よしと受注第一号の靴を張り切って作り始めました。
細心の注意を払い一つ一つ丁寧に作業をこなし、ようやく完成しました。
1日、2日眺めて、どうしても納得が行かず作り直すことにしました。
また、それから細心の注意を払い一つ一つの作業を終えてようやく完成した靴を見て、
よし、これで勝負と納品の連絡をするために社長の携帯に電話をかけました。
すると、奥様が電話に出られて、私の唇が震え出しました。
社長が亡くなったことを聞いた途端、私は大声で泣き叫びました。
奥様は、私が靴を作っていることを知っていたのでどうしても連絡できなかったと言っていました。
そのことを知らされたら社長の靴を完成させることはできなかったと思います。
社長という人は、あらゆることを想定している人だったので、こういうことも想像していたのかもしれません。
だから、あれほど代金は後からでもいいと言っても聞き入れてくれなかったのかもしれません。
あの時、作り直さなかったら社長に見てもらえたかもしれない、
そして、一言「いい靴」だと褒めてくれたかもしれない。後悔でいっぱいでした。
しかし、社長は「それでいいんだ」と言うでしょう。
「納得の行かない靴を俺に差し出すのか」と言うでしょう。
今は、私もそれで良かったのだと納得するようにしています。
その靴は今でも社長の仏壇の前に置いてあります。
毎年、命日にお邪魔する時にその靴を見るたびに、よくやったと自分を褒めてやりたい気持ちになります。
あの時、作り直さなかったらこの気持ちはなかったことでしょう。
それどころか作り直さなければ、その靴を見るたびに辛い気持ちになっていたと思います。
一つ一つの積み重ねで作り上げた靴を納得して納品する気持ちは、
今も社長からの遺言だと思って大切にしています。